八木素萌 略歴
昭和31年(1956年) | 恵比寿にて薬店開業。同時期に大塚敬節『漢方医学』(創元医学新書・初版 昭和31年7月刊)に接して多いに感銘を受けて、漢方医学を学び始める。 |
昭和36年(1961年) | 神奈川漢方小太郎会の主催する研究会に参加。石原明師、清水藤太郎師、矢数道明師に師事。 |
昭和38年(1963年) | 石原明師の推薦によって「日本東洋医学会」に入会。 |
昭和40年(1965年) | 神奈川漢方小太郎会学術部長・理事・幹事となる。一方「温病学」があることと、その重要な意味を知り、是非研究しなければならないと説くようになる。『傷寒論』には、鍼灸術による「傷寒」の治療が少なからず記述されていることから、「鍼灸」もできなければ「漢法家」としては片手落ちである点を強く意識したので、その研究を始めた。 |
昭和51年(1976年) | 東洋鍼灸専門学校入学。昭和54年同本科卒(2部)橋本素岳先生、小野文恵先生に師事。『難経研究会』を始める。18年間に約500余回の通読、通釈書30余種類の通読と重要通釈書の比較対照の研究。 |
昭和57年(1982年) | 2月 塾始まる。『実践難塾』と称す。 |
昭和60年(1985年) | 6月 『漢法苞徳塾』と改名。 |
昭和61年(1986年) | 煮鍼・燔鍼治療の復活を唱える。 |
昭和62年(1987年) | 「気の感知出来る手指の開発訓練法」をまとめあげる。工夫をこのようにまとめるのに8年を要した。 |
平成6年(1994年) | 夏季合宿にて「汎用太金鍼」について発表。昭和53年(1978年)頃から太い金鍼を臨床において試みに用いるようになっているので、鍼の形態と鍼法手技にいたるまでが基本的に出来上がるには16年を要している。 |
平成19年(2007年) | 6月28日 逝去。 |